明けましてお芽出とうございます。
皆さんの2015年が、素敵な年となりますように!
皆さんはお正月はどのようにお迎えでしたか?
田んぼは・・・やはり冬景色ですが、何とも言えないすがすがしさが香ります。

お正月は恒例で、社長の欣ちゃんのお里の和歌山と、
私の生まれ育った京都に帰ります。
京都の暮れとお正月は、賑やか!
埼玉のスーパーでは、設けられたお正月コーナーに、お正月のものが集められていますが、
京都ではスーパー丸まるっとお正月仕様です。
じゃが芋などの、普段の食材を探す事が困難なくらい、お正月の食材で埋め尽くされます。
紅白の蒲鉾(かまぼこ)、棒鱈(ぼうだら)、昆布巻き、海老、慈姑(くわい)、八頭(やつがしら)、
スーパー内の花屋さんでは、注連縄(しめなわ)、角松、赤い実の南天(難を転じる)…
そして大晦日は、市内あちこちにあるお寺から、除夜の鐘が掛け合いのようにゴンゴンと鳴り響き、
(本当にあちこちから聞こえます(笑))
明けて元旦からは、これまたあちこちに鎮座する神社のまわりに、
初詣の行列が、それこそ満員電車の中のように連なり、
新年の挨拶に行き交う人々も重なって、ごったごった返します。
さすが「生きている伝統」の町。
単に「古い=伝統」でなく、今も続けられている習慣が、伝統となって生きていると感じます。
京都を離れて、素晴らしいなと再認識するのは、
多様さと、暮らしに人々の交流があることでしょうか。
例えば買い物スタイル。
今、日常の買い物はスーパーやショッピングモールで全て済むようになりました。
スーパーでは全国からの商品が取り寄せられ、
いつでも、どこのものでも買える時代になり、
子育て世代にとっては、1カ所で全て済むので、本当に便利になりました。
その反面、そのスーパーが揃える、そのまんまで食卓が構成されてしまうことも感じます。
また、スーパーの買い物だと、好きなメーカーはあっても、
その時々の値段次第で、他社のものも買ったり…という、
初めに、物と値段ありき、のスタイルになりがちかと思います。
また、お店の人と話したりはあまりしないですね。
どこにあるかをたずねる時くらいです。
そんな中、京都はまだまだ個人店で手造りのものを出す、
例えばお豆腐屋さん、お味噌屋さん、お魚屋さん、和菓子屋さん・・・といった専門のお店が市内あちこちにあり、
同じお豆腐でも、お店の数だけ種類が多様にあり・・・すなわちストーリーと味が多様にあり、
また、個人店なので、お店の人がおススメしてくれたり、質問したり・・・と、会話や交流があります。
人々は、お豆腐はここ、鯖寿司はここ、和菓子でも羊羹はここ、豆大福はここ…と、「行きつけの〇〇やさん」といった、付き合いのあるお店に親しみ、多様な食生活があるように感じます。
「誰がどんな風に作ってくれた〇〇」
物が、作る側→買う側と、一方通行に流れるだけではなく、
誰かと交流があった上で、品物が行き、声が帰る・・・。
行き交う習慣がある事で、
買い手だけでなく、ものづくりも根底から変わってくると思うのです。
いえ、「変わってくる」ではなく、元々はそうだったのでしょう。
自分達が作ったものを選んでくれて、
わざわざ足を運んでくれるお客さんを想い、応え、感謝し、大事にするものづくり。
確かに古い寺社仏閣といった世界遺産が多くある町で、
ものづくり、買い物スタイルも、合理的でなく古いと言われれば、それまでなのかもしれませんが、
作り手と買い手の会話、交流・・・
言葉の数と、交わした気持ちが、活気となって町全体に広がっていて、
何とも言えない、歴史すら生きている町になっているのだなぁと感じるのです。
地域それぞれが違うことが当たり前で、
そのまま当てはめようとするのはナンセンスですが、
農業をやっていても、
人の気持ちが行き交う中で、農産物が流通するにはどうしたらいいか、など、
市場(いちば)や個人店が活き活きする町で育ったことが、考え方に影響したなと自覚したりします。
先に気持ちありき、ですね。
毎年帰省して、気持ち新たに一年を想います。
今年も皆さんの身体が、健康でありますよう。
お米は身体の基礎。
誇りを持って稲作をさせていただき、
皆さんの健康な身体の基礎を作る、安心で美味しいお米を届けさせていただきます。
また、このような場を与えて下さっているので、
サンクスアイさんと、お買い求め下さる皆さんと、作り手の私達とが、より近づけるように、
今年も愛感謝米の田んぼの様子など、オープンにお届けしていきますので、
今年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
網本朝香